2014年 夏合宿

今回の合宿地は、愛媛県松山市(道後温泉)。


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合宿の旅程などを、参加者ごとに紹介します。
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参加者  はやぶさ  LP42  サンポート  北越  カタナ  ヒサシ138  青ガエル  キマロキ  キハ285  はつかり  キハ110  キュウべえ  TJライナー  グラシア  よっしー  中將  キハ52  桿菌

グラシア

8月24日 小牛田<東北本線 普通>仙台<東北本線 普通>福島<東北本線 普通>郡山
<磐越西線 快速あいづライナー1号>会津若松<磐越西線 臨時快速 SLばんえつ物語>新潟
<徒歩>ホテル
8月25日 ホテル<徒歩>新潟<信越本線・北陸本線 特急北越2号>魚津<北陸本線 普通>富山
<北陸本線 普通>金沢<北陸本線 普通>福井<北陸本線 普通>敦賀<北陸本線・湖西線 普通>
近江塩津<北陸本線 普通>長浜<北陸本線・東海道線 新快速>彦根<徒歩>ホテル
8月26日 ホテル<徒歩>彦根<東海道線 新快速>京都<東海道線 新快速>大阪<大阪環状線 普通>天王寺
<大阪環状線 普通>京橋<片町線 普通>徳庵<片町線 普通>京橋<大阪環状線 普通>天王寺
<大阪環状線 普通>大阪<東海道線・山陽本線 新快速>姫路<山陽本線・赤穂線 普通>相生
<山陽本線 普通>岡山<山陽本線 快速サンライナー>倉敷<山陽本線 普通>新倉敷
<山陽新幹線 こだま号>岡山<山陽・九州新幹線 みずほ号>広島<徒歩>ホテル
8月27日 ホテル<徒歩>稲荷町<広島電鉄>広島港(宇品)<瀬戸内海フェリー>松山観光港<接続バス>高浜
<伊予鉄道 高浜線>大手町<徒歩>JR松山駅<伊予鉄道 市内線>大街道<徒歩>松山城
<伊予鉄道 市内線>道後温泉<伊予鉄道 市内線>大街道<徒歩>伊予鉄高島屋
<伊予鉄道 市内線>JR松山駅<伊予鉄道 市内線>道後温泉<徒歩>ホテル
8月28日 ホテル<徒歩>道後温泉<伊予鉄道 市内線>JR松山駅<予讃線 普通>宇和島
<予土線 普通(鉄道ホビートレイン)>窪川<土讃線 特急あしずり10号>高知
<土讃線 特急しまんと8号>坂出
<予讃線・本四備讃線・宇野線・山陽本線・東海道線 寝台特急サンライズ瀬戸>車中泊
8月29日 車中泊<寝台特急サンライズ瀬戸>東京<中央快速線 快速>立川<中央快速線 普通>高尾
<中央本線 普通>大月<中央本線 普通>高尾<中央快速線 特別快速>中野
<中央・総武緩行線 普通>両国<中央・総武緩行線 普通>錦糸町
<総武快速線・東海道線・横須賀線 普通>東京<山手線内回り>上野<山手線内回り>新宿
<徒歩>ホテル
8月30日 ホテル<徒歩>新宿<中央快速線 快速>神田<京浜東北線 普通>大宮<湘南新宿ライン 普通>
宇都宮<東北新幹線 なすの号>郡山<東北新幹線 やまびこ号>仙台<東北本線 普通>小牛田

 今回の旅行においては、青春18きっぷをメインで利用しつつも状況に応じて乗車券・特急券などを購入しました。また、SL列車については快速列車であるため指定席券+青春18きっぷで乗車できました。以下では旅の詳細について記述していきます(ここから文体が変わりますがあらかじめご容赦ください)。

8月24日
 早朝6時20分に家を出た私は、小牛田6時44分発の普通列車岩沼行き(6両編成)に乗った。多少なりとも旅情を楽しみたかったので、敢えて前4両のオールロングシート車には乗らず、5号車のクロスシートに座った。郡山までこうして辿り着くことを願いながら。
だが、そんな私の淡い期待は粉々に打ち砕かれた。乗り換えた福島行き普通列車(6両)

は全車ロングシートであり、福島からの郡山行き普通列車(4両)は先の福島行きの後ろ4両がそのまま使われたものだったのである。結果、私は仙台から郡山までこの通勤列車感満点の車両に付き合わされることとなった。
 そうこうしているうちに郡山に辿り着き、ここから会津地方横断を開始する。まずは会津若松へ快速あいづライナーで向かう。
 
 郡山で調達した駅弁を食べるなどして会津若松で待つこと3時間。この日最大の目的である人生初のSL列車一人旅を開始する。お盆明けであったためか予想以上に乗客は少なく、川に沿って走る列車の車窓に映る景色を眺めながら存分に一人旅を楽しむことができた。
 
 新潟に到着したのは午後7時ごろであった。国鉄型車両が次々に現れる新潟駅でひとしきり写真を撮った後、私は新潟駅の改札を出て地下街で夕食を摂りこの日の宿に向かった。

8月25日
 新潟からこの日の宿泊地である彦根まで行かねばならないこの日。普通列車ではどんなに急いでも到着が午後9時を回ることから、途中の魚津まで特急を使うことにした。車両は485系リニューアル車であった(なお、某氏がtwitter上でこの車両についてなにやらぶつくさ言っていたようだが、改造車とはいえ国鉄型が次々に消されてゆく状況下でこうして特急に使われている国鉄車両は貴重であると私は思う)。

 日本海に沿って快調に走る特急車両に乗ること2時間40分。魚津に到着し、3時間近く乗ったこの特急列車を見送った後、3分後に来る普通列車に乗り、富山に到着する。なお、先程の特急北越号が北陸新幹線開業の影響で翌年の春に廃止されることが発表されるのはこのわずか2日後のことなのだが、無論私は知る由もない。
 富山駅にて413系や475系といった国鉄車両を写真に収め、昼食に富山の蕎麦を食した後、普通列車金沢行きに乗車する。なお、車両は521系2連であった。ここからのおよそ半日の間、私はこの乗り心地よき新鋭車両とともに旅をすることになる。倶利伽羅峠を越えて金沢に至り、さらに福井に向かう。福井から南へ向かい、北陸トンネルを抜けて敦賀に到着した。このときの時刻、16時37分。さらにここから二駅先の近江塩津まで湖西線の普通列車に乗り、乗り換えて長浜に到着した。時刻、17時52分。気づけば滋賀県、関西である。

 ここでようやく521系電車に別れを告げ、223系電車が充当された新快速で彦根へ向けひた走る。富山から長浜まで2両編成の列車ばかりだったこともあり、8両という新快速の両数(米原から12両)がとてつもなく長く感じた。  18時23分、定刻どおり彦根に到着し、駅前の百貨店で夕食を摂り、大阪近辺及び東海道線・山陽本線の過密ダイヤへの対策としてようやくといえばようやく時刻表を購入し、私は宿へ向かった。

8月26日
 この日は京阪神を突破し四国上陸のお膳立てをする日である。早朝6時20分に彦根を出る新快速でまずは京都へ直行する。例によって京都で鉄道写真を撮りまくった後、新快速に再び乗って大阪を目指す。

 大阪到着後、大阪環状線に乗車し天王寺に向かう。というのは、この駅のホームの構造がJRとしてはかなり珍しい代物であるため、そして大阪周辺を走る国鉄型車両が最も多いのがこの駅であるためだ。製造中の仙台市営地下鉄東西線の車両が見られるかも、との某氏からの情報を得て近畿車輛の最寄り駅に行ってはみたのだが、建物が多く見ることはできなかった。
 ひとしきり写真を撮り、大阪に戻って姫路行きの新快速に乗ったときには時刻はすでに昼時を過ぎていた。それにしても新快速は速い。「快速」という文字が列車名称につけられていることを不思議に感じてしまうほど速く、なおかつ快適であった。

 姫路から赤穂線普通列車播州赤穂行きに相生まで乗り、そこから岡山行きに乗車する。車両は、俗に「末期色」などと呼ばれている塗装の岡山支社の115系(体質改善車)であった。中国地方の国鉄型電車はもはやその大半がこの色と化しつつあるらしい。
 岡山到着後、乗り換え時間2分という難関を突破して快速サンライナー(117系3連、やはり末期色)に乗車し、倉敷で降りる。JR久留里線から転属した水島臨海鉄道のキハを撮るためであった。この日はキハ37型が充当されていて、残念ながらキハ30型は撮れなかったのだが、貴重な車両を見ることができたことには変わりない。まあキハ30型はいずれまたの機会だなと思いつつ新倉敷まで普通列車で向かおうとしたところ、その普通列車の車両というのが湘南色115系(未更新車)であったという思いがけない幸運。運というものはまったく分からぬものであるとつくづく思った。
 新倉敷から新幹線を使う。こだま号で一旦岡山まで戻り、そこからみずほ号で広島まで突っ走る。広島市内の野球場で乱打戦と化していたプロ野球の試合をキハ110氏と嘆いたり広島にたむろする国鉄車両を写真に収めている最中に思いがけずキハ285先輩に遭遇したりしているうちに時刻が午後8時を回ったので、夕食を調達してこの日の宿に向かった。

8月27日
 
 本来ならば6時過ぎに宿を出て6時45分広島港発の瀬戸内海フェリーに乗るはずだったのだが、あろうことか寝坊をした私は7時過ぎに宿を飛び出すこととなった。どうにか広島電鉄の車両(元京都市電)に乗り、広島港にようやく辿り着いて8時15分発のフェリーに乗り込んだのは出港直前という有様であり、結局私は広島の街に満足に別れを告げることのないまま本州を離れることとなったわけだが、てんやわんやの起床後1時間とは対照的に、乗船後の3時間40分はきわめて平穏かつ快適であった。
 時刻どおりに松山観光港に到着し、ついに四国上陸を果たす。この港の最寄り駅である伊予鉄道高浜駅まではそれなりの距離があるため、接続バスに乗車し5分ほどで着いた。
 私が到着して3分ほどして、高浜駅のホームに普通列車が入線してきた。伊予鉄道3500系を名乗っていたが、その正体は元京王電鉄井の頭線3000系電車で、よく見るとステッカーを剥がした跡が残っていたりした。この車両に揺られておよそ15分。日程4日目にして私はようやくJR松山駅前に到着したわけである。その後、はやぶさ先輩と合流し松山城や道後温泉を堪能して一日を過ごし、再び松山駅に戻り集合場所に現れることとなる。
 

8月28日
 朝7時半ごろに道後温泉をはやぶさ先輩とともに出た私は、松山駅到着後お土産や朝食を調達したりして時間待ちを行い、はやぶさ先輩と別れ、9時46分、松山発普通列車宇和島行きに乗車した。瀬戸内海や周囲の山々を車窓から見ながら西へと向かい、宇和島に辿り着いたのは13時14分。それからおよそ2時間の間、駅ホーム内で暇をつぶしていたわけだが、その目的は、巷で「四国新幹線」などと呼ばれている「普通列車」に乗車することであった。1本後の列車で私に追いついた青ガエル先輩・キハ285先輩と共に、私はこの迷列車「鉄道ホビートレイン」による四万十川沿い2時間16分の窪川までの旅を存分に楽しんだ。

 窪川駅からは特急列車を乗り継ぎ、四国のちょうど反対側の街、坂出を目指す。青ガエル先輩とはここでお別れである。須崎駅を過ぎたあたりで日が暮れ、車窓にほとんど何も映らなくなった。午後7時半ごろ高知に到着し、キハ285先輩と別れ特急しまんと号に乗り換えてさらにおよそ2時間。ようやく坂出に到着する。すでに売店も営業を終えていたため、夕食は昼飯に続き持っていた予備の食料で対応することに決めた。
 さて、そうこうしているうちにサンライズ瀬戸の入線時刻である。どうにか自分の部屋を発見し外の夜景を眺めているうちに岡山に到着、サンライズ出雲を連結し14両となった列車の10号車のロビーは、同じくサンライズに乗り合わせていた鉄研のメンバーで一時ごった返した。私はその後しばらくロビーの窓から夜景を眺めた後、列車が姫路駅を発車したことを確認して自分の部屋に戻り、眠りについた。


8月29日
 小田原駅の手前あたりで目が覚めた。何をするでもなく外の景色を見ているうちに列車は横浜を過ぎ、終点の東京に到着した。サンライズに乗り合わせていた鉄研のメンバーはここで解散となり、私は中央線で富士山麓の町である山梨県大月市を目指す。途中までは東京らしい都会の景色がE233系電車の車窓から見られたが、115系電車(長野色)に乗り換えて高尾駅を出るや風景は一変し、緑に覆われた峡谷がメインとなった。
 大月に到着したのは10時過ぎであった。しばらくこの駅にとどまり富士急行鉄道の希少車両たちを写真に収めた後、駅前の食堂で私は約30時間ぶりのまともな食事にありついた。

 その後、横須賀色115系(2014年12月全廃)と中央快速線(E233系10連)で東京に戻り、両国駅の長距離列車ホームというやつを見に行くことにした。今でこそ国技館の最寄り駅としての役割にとどまるこの駅も、総武快速線が開業する前は特急の発着駅だったらしく、そのときのホームが新聞輸送列車用として使われ残っている、という話を以前聞いたことがあった。というわけで中央・総武緩行線に乗り見に行ってみたところ、そのホームに止まっていたのは貨物列車などではなく、団体客を乗せた485系改造のジョイフルトレイン「ニューなのはな」であった。どうやら貨物用というより団体臨時列車の停車用に使われていたらしい(後で調べてみたところ新聞輸送列車は2010年に廃止されていた)。とりあえずいまだ現役であることに安心した私は、ひとつ隣の錦糸町駅から総武快速線で東京に戻り、山手線内回りで宿のある新宿に向かった。

8月30日
 とうとう帰還の日である。東京から帰るにしても、ただ普通列車で戻るのでは面白味に欠ける、そう考えた私は、ある珍車両を撮るべく、中央快速線・京浜東北線・湘南新宿ラインを経由し東京に別れを告げた。途中、大宮の引込み線にクモヤE995形が留置されていたのを発見した。ハイブリッド気動車から燃料電池車、さらに蓄電池車へと度重なる改造を受けたこの車両の行く末も気になるところだったが、動く様子もなさそうだったので写真だけ撮って大宮を去った。

 宇都宮で私は列車を降りた。東北線の列車の大半(私の乗っていた列車を含む)が宇都宮で終点であることも理由のひとつではあるが、わざわざ宇都宮まで鈍行で来たのには理由があった。烏山線という非電化路線に導入された蓄電池で動く「電車」を見るためである。先ほどのクモヤE995形の技術を実用化したEV‐E301系というやつを、せっかくだから見ていこうと思い、しばらく待っていると、最新車両にしては妙に重い走行音と共にその車両が入線してきた。乗ってみたいところではあったが、今日中に帰宅せねばならないこともあり、乗車はまたの機会として発車を見送ることにした。

 さて、普通列車で帰ろうかとも考えたが、それでは行きと同じ車窓の巻き戻しを見ながら4時間近くすごすことになるし、何より帰宅する時間がかなり遅くなってしまう。というわけで、仙台まで新幹線で戻ることにした。なすの号で郡山まで行き、やまびこ号で仙台に帰る。仙台の手前で東北本線の長町駅の横を通過したとき、高校の修学旅行でも感じたことはなかったのに、何故か、自分が久しぶりに宮城に帰ってきたことを実感させられた気がした。また、これで旅も終わりなのだということも、同時に思った。
 だが、最後に、もうひとつだけ、驚きが待っていた。新幹線の改札を出て在来線の改札に入ったところ、慣れ親しんでいたはずの改札内で一瞬迷いかけたのである。少し歩いて、私はその違和感の正体に気づいた。
 どうやら私がいない間に仙台駅の3〜8番線ホームの南側の階段がすべて使用中止となり、代わって新たな連絡通路が開通していたようなのである。その影響で工事の足場も床の状態もすっかり変わっていたため私は大いに混乱した、というわけだったのだ。仙台駅自由通路の周辺開発事業が数年後に完成する姿をこの目で見る日に大いに期待を膨らませながら、一週間ぶりに目にする719系電車に乗り私は小牛田へと帰った。